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嶽心荘 横山大観に賭けた夢の跡

嶽心荘 横山大観に賭けた夢の跡

山本興仁

昭和四年(1929)八月、角間温泉の山すそ高台に、横山大観の”画房“が完成した。前庭からは眼下に湯田中の街が一望できる。その先には高社山の雄姿が見える。この眺望から大観は、この建物を”嶽心荘“と名付けた。
ところで、嶽心荘は建設の意図、という点において、その実状は曖昧である。本来この地には、かって存在した興隆寺(以下、寺という)の隠居所が再建されるはずであった。ところが、完成した建物は大観の画房であった。この矛盾した事情については、当時の記録は明確にしていない。また、この画房は結果的には、大観に利用されることはなかった。さて、数年前に寺に返還された建物は、老朽化が進んではいたが、建設当時の姿を残していた。そこで、この建物にまつわる出来事を残しておきたいと、嶽心荘に関する資料を整理してみた。そして、前述の矛盾した事情も、当時の激動の時代の中に読み取ることが出来た。ここに不備ながら、改めて紹介してみたい。

隠寮の再建
冒頭で記した様に、嶽心荘の建設目的は、当初は隠寮の再建にあった。少なくとも名目上はそうであった。まず、そのことの概略から見ていくことにしたい。
かってこの地には、静勝庵という寺の隠居所があった。正徳年間(1711~1716)に、寺領の裏山から湧く温泉を引き、浴場を備えた薬師庵を建てたのが、その起源であった。明治に至って、廃仏毀釈に遭ったが、寺領の”名請け“(土地や建物の名義を借りること)によって、没収を免れていた。しかし、大正の末には焼失してしまったという。寺としては、この庵と温泉の復活が課題であった。
再建にあたっては、寺の裏山の杉が資金となった。この杉山の伐採許可願いが、長野県知事あてに提出されている。その書類には、杉の売却代金の使用目的として、「隠寮再建費二充当ス」と記されている。
因みに当時この杉山は、北信随一の美林と言われていた杉林で、樹齢は百数十年を経ていた。この林から、約三千五百本の杉が伐り出されている。隠寮を再建するには多額すぎる資金が調達された。結局それは、大観の画房建設の資金となったのである。折しも昭和四年は、世界大恐慌が始まった年であった。農村も例外ではなく、当時の新聞は「農村を直撃する恐慌の波」と伝えている。
社会不安が拡大していた時代に、隠寮の再建は非難もあったようであるが、寺の内情は、温泉権の問題をかかえていて、躊躇できなかったのである。そうした状況の中で、時代の波は寺にも意外な展開をもたらした。

観光の黎明期と大観の招致計画
さて、この時期の山ノ内地方には、大恐慌とは裏腹に観光開発の波が押し寄せていた。こうした時代背景から隠寮を地域活性化につなげようと、大観の招致計画が浮上したといわれている。確かにこの時代の山ノ内の変貌ぶりには、目を見張るものがあった。昭和二年に、長野電鉄湯田中線が開通した。街道の旅から、鉄道の旅になった。これによって観光地としての展望が大きく開けた。翌三年、長野電鉄は上林温泉にホテル(現仙寿閣)を開業、そこを基点に沓野山の観光開発をすすめた。四年、沓野山一帯は「志賀高原」と命名され、バス路線も開通したという。大倉男爵が、秩父宮、竹田宮を志賀高原に案内されて、開発の後押しをしたのもこの年であった。また湯田中では”百尺観音“(平和観音の前身)が着工された年でもあった(完成は同13年)。更にまた、大正四年に開湯された穂波温泉は穂波村の分村として、新たな集落を形成しつつあった。実に激変の時代であった。
こうした温泉地、観光地としての変貌は、何よりも多くの著名人達の訪れる処となった。角間温泉も例外ではなく、更に、寺にもいわゆる”文人墨客“達が出入りするような時流であった。元来、芸術家と寺院との関わりには、長い歴史があるが、特に明治以降、大観の師であった岡倉天心によってないがしろにされていた仏教芸術に光が当てられた。そのことは、古寺社の宝物の保護、ひいては文化財保護に道筋がつけられることになった。むしろ画家達が仏教に目を向けていた時代であった。身近には、児玉果亭が、興隆寺に通い、南画に必要な中国文化の素養を、畔上楳仙禅師の許で身につけた。以後、寺崎広業を始め、画家達や著名人達がこの地を訪れ、観光の促進に寄与した。
概略ながら、こうしてみて来た時代の流れに、隠寮の再建は画房建設に替わり、大観に地域発展の夢を託したと考えて、妥当ではないかと思う。唯しかし、この地には大観は縁のない人であった。後に大観は山本保村長への礼状の中で、「今回不思議の御縁にて名勝角間霊泉場に大画房新築之上御招請を蒙り候は誠に一身之光栄に有之(後略)」と記しているが、”不思議之御縁“が、どういう形で大観に結び付いたのかは、伝えられていない。

画房建設の協力者
大観と嶽心荘との関わりを、最初に世に紹介されたのは、横山大観記念館の長尾政憲学芸部長であった。昭和六一年に発行された館報に、長尾氏は「大観と信州角間芸術村」と題した伝記研究文の中で、大観の手紙を次のように紹介されていた。
「昭和四年五月四日付の寛方あての手紙で大観は、信州武藤様(棟梁か)より早々出張之様御催促之御書簡を接受仕候へとも病気今猶快方二不至、医師よりは旅行絶対に禁ぜられ候」、と現地から出張の催促をうけたが病気でいけないのでよろしく伝えてほしい、また、「家屋は先方に万事一任仕度候」、と追書している。
この手紙が書かれた五月四日は、角間に画房建設が始まった頃である。この手紙が今のところ、大観への働きかけが確認出来る最初の資料である。そして「家屋は先方に万事一任仕度候」とあることから、大観は自分の為の画房であることを建設前から了解していたことが窺える。さて、ここで、大観に出張の催促をした。”武藤様“と大観から返信の依頼を託された”寛方“について、寺との関わりを見ておきたい。

武藤様
先ず武藤様については、藤沢住職が残した手紙の控えが、唯一の情報である。藤沢住職は画房完成後に、武藤様に礼状を書いた。これを寺の総代に託して、長野市迄届けている。内容は次の通りである。
「(前文略)倍、嘗大観先生画房之儀に就てハ全く創業の御骨折りに預かり、即其今日あるを得候事、偏に貴台 の賜として謹ミテ御證申上候」「(前文略)倍、嘗大観先生画房之儀に就てハ全く創業の御骨折りに預かり、即其今日あるを得候事、偏に貴台 の賜として謹ミテ御證申上候」「(前文略)偖、當大観先生画房之儀に就てハ全く創業の御骨折りに預かり、即其今日あるを得候事、偏に貴台 の賜として謹ミテ御禮申上候」他に具体的な内容はなく、また、他の資料にも記述がないのは不思議である。

荒井寛方
昭和六十年頃、寛方のお孫さん達が、寺にある寛方の「仏陀降誕之図」を見たいと訪ねて来た。そして、この図にまつわる話をされた。
大正五年、寛方はノーベル文学賞を受けたインドの詩人、タゴールに招かれて、日本画を教えていたという。その間、仏教美術の源流といわれるアジャンターの壁画を模写して、日本でも有名になり、帰国後に画いたのが「仏陀降誕の図」であったという。この図を、しかるべき寺に納めようとしたが、どこの寺でも受け入れてもらえなかったという。マヤ夫人(仏陀の母)の、インド的なリアルな姿は、当時の日本の文化になじまなかったからという。結局、大正の末頃、この寺に収まったという話であった。そして、寛方は度々この地を訪れていたことや、嶽心荘建設に関わったことなど、お孫さん達から聞いた。
さて、藤沢住職と寛方との縁は、一枚の仏画から生じたことがわかった。そして、画房建設に至っては、良き協力者となったことが、藤沢住職の次の二通の手紙から伝わってくる。
「終始御配慮に預かり来たりし候、大観先生画室建設の儀も漸く終了(中略)尚、其他貴台の御検分を得候ハでハ、事、解決致し兼ねるもの数々有之次第(中略)何とか御差繰相成、是非一度御臨場被成下様(後略)」と、建物の検分を依頼しているが、叶わなかった様で、追って次のような手紙を書き送っている。
「(前文略)実情申上候ハハ、其土地柄は貴台の御紹介に預りしとは申せ、その工事萬端ハ、無検閲の事に有之或ハ御不満足にもやと、彼子此憂慮罷在り候(後略)」と、披露式を間近にして、不安な胸の内を寛方に伝えている。

山本保と建築図面
画房建設が始ろうとしていた五月、寛方は山本保に次のような手紙を送って来ている。
「拝啓、陳者御送付の図面、早速横山先生へ送り申上候處、只今御手紙と共に、図面朱筆入御申越に候間、御訂正者願上候、先生より之御手紙に、御送付之温泉場図面少し朱筆入候、御一覧之上、先方様に御申入れ生成候て者如何に為や、建屋全体より見て離れ之室、鬼門に出はり居候故、図面訂正之様、被遊候は、如何二や云々、右之一任に就て、宜敷願上候、図面朱入之如く離全体を、b線之處まで前進することに候
五月二十四日寛方
山本保様」(句読点を補った)
この手紙の内容では、山本保は荒井寛方に、嶽心荘の図面を送っていたようである。その図面に、大観が朱筆で訂正を加えたので、「宜敷願上候」と依頼している。
ところで、この図面は山本保氏が画いたものだろうか。ともあれ、氏は画房建設の推進役といわれた人である。
当時、山本保は穂波村の村長であった。そして、画家であった。雅号を恵田といい、村では”恵田さん“で通っている。寺に於いては世話人であり、藤沢住職とは父子二代にわたって、個人的に親交があったという。因みに恵田の父も又画家で、児玉果亭に南画を学び、時折酒を酌み交わす仲であったという。号を凌亭といい、その作品は、永平寺の天井画に収められている程である。又当地方で最初に楽焼きを始めた人で、果亭や住職にも教えている。
こうした環境にあってのことか、山本保は成年時代に上京して、小坂芝田(果亭の俊英)に師事した。そして帰郷して、三十代で村長になった人である。(山本秀麿先生(恵田の子息)の『山本四代画集』参照)
その経歴は寛方や大観に伝わっていたろうと思われる。以前、大観は「家屋は先方に万事一任支度候」と、寛方への手紙に書いている。画家である山本保の存在が念頭にあってのことだろうか。

嶽心荘の囲炉裏の間
大観が朱筆で訂正を求めた図面の間取りそのものは、現在の建物の間取りとほぼ等しい。
建物は三棟からなり、約120坪である。580坪の敷地には、前庭と池を配した裏庭がある。玄関を入って右手廊下ぞいに15畳と18畳の広間(画室)がありその手前左側には15畳の応接間がある。この部屋は、池之端の大観邸の居間であった”証鼓洞”(昭和20年の空襲で焼失)を模して造られたという。中央に一畳分の囲炉裏が配してあり、天井は蒲天井風の意匠が凝らしてある。かって、池之端の大観記念館に、美代子夫人(大観の養女)を訪ねた時、夫人は、嶽心荘の囲炉裏の間に.座ると、かっての証鼓洞の雰囲気が伝わってくる、と語られた。
因みに、この応接間の意匠は大観の指示ではないようで、おそらく”証鼓洞“を知る山本保の計らいによるものと推察される。

「大観先生画房」と「興隆寺隠寮」
嶽心荘が完成して約1ヶ月後、“披露式”の案内状は次のような文面で出された。「(前文略)、今春来當寺に於いて計画致候、横山大観先生画房の儀、今回落成に付、来る9月15日、該披露式挙行致し度候間、御繰合せの上同日午後1時、角間温泉現場へ御来臨被成下度、此段御案内申上候 頓首
昭和四年九月八日
下高井郡穂波村興隆寺
住職 藤沢岡克
檀 徒 総 代」

この案内状は、藤沢住職の「来賓名簿」では、東京まで持参して、左記の人々に届けられた。
「男爵大倉喜七郎閣下、横山大観先生、小林古径先生、前田前田青邨先生、大智勝観先生、荒井寛方先生、中村岳陵先生、橋本静水先生、速水御舟先生、橋本永邦先生、堅山南風先生、男爵秘書手木泰治先生、写真師大塚稔先生」
以上のうち10名は、当時、美術院の同人として日本画壇の中心にいた人々である。一行は予定より4日早く訪れ、そして、祝賀会は3日間にわたって、重大に催されたという。後日談によれば、この時の大観はひたすら大倉男爵の接待に努めていたという。男爵は大倉財閥の当主で、大観や日本画壇にとって最大の支援者で、理解者であったという。しかし、地元の参会者達は大観に一筆画いてもらおうと、露骨で礼を失した場面が多々あって、不快感を与えたという。
ところで、この祝賀会では更に深刻な問題が、形になって表れていた。記念品であった酒器の徳利に「落成記念、興隆寺隠寮」と名入れしてあったのである。また、猪口の中底には寺紋まで入れてあった。まったく理解できない出来事だった。実は、このことの根底には、寺院の制度的な問題があった。つまり、画房建設には寺の資産が費やされたが、本来、寺の資産は別途目的には転用できなかった。この問題は、郡会議員に届いていて、藤沢住職は建設途上でこのことを問われることになった。
住職の去就がかかった問題であった。画房の完成を間近にして浮上した問題で、記念品への名入れという方法で解決を図ろうとしたのではないか、と推察される。

ともあれ、祝賀会での場面に、重苦しい空気が有ったようで、後日、大観に送った礼状は半ば詫び状であった。「(前文略)、下拙等のあさましくも御機嫌に楢れ百事失礼仕り候段、今更御詫申上候、何れ近日参上御禮可申上も、先ハ以書中、此段得貴意候、誠惶頓首」(句読点を補った)
この書状は、住職と村長の連名で出されていた。同様の手紙は、大倉男爵にも送っていた。手紙の文面に「何れ近日参上」とあるように、十日後には住職、村長以下七名と郡会議員が加わって上京した。
さて、東京では大観以下、十人の美術院同人が、同席した宴会に招かれた。角間での不祥事は取りざたされなかった様で、住職の日誌からは、安堵の様子が窺える。その後、大観からは「嶽心荘」と大書した額と礼状が送られて来ている。

消えた夢
昭和5年1月、大観はローマでの現代日本画展のため、半年間日本を離れる旨、書き送って来た。それは大倉男爵や、ムッソリーニ参画の大イベントだった。帰国後に大観はローマ展での報告冊子を送って来た。美術史を見ると当時の大観は、ドイツやアメリカでの展覧会もひかえていて、尋常な忙しさではなかったことが窺える。
しかし、藤沢住職は再三にわたって、角間への再訪を依頼した。大観はその都度、山本村長や寺に、寸暇もない近況を伝えて来ている。昭和6年の手紙では「小生丈にても都合つき候はば、一日たりとも伺ゐ度存居候」とあって、その心遣いには敬服する。しかし、しだいに嶽心荘との距離は増していった。やがて大観との”御縁“は、必然的ともいえる様に、失われていく結果となった。しかし、85年を経た今日、残された建物は、文化遺産ともいえる存在となって、先人の消息を今に伝えている。

名画「叭叭鳥」
昭和7年、大観は大塚稔氏(大塚工芸社長)を伴って嶽心荘を訪れた。住職は、この時の準備品や買い入れ品のメモと、後に書き送った礼状の控えを残している。唯なぜか、礼状は大観にではなく、大塚氏宛ての次のようなものである。
「啓上仕り候、今回ハ横山先生御同伴御来駕に預り、添<奉存候、特二、同先生に関はる名画の大掛額を、当別邸へ御寄せ相成、光彩を御附輿被下、忝き御涕に奉存候然同慮御滞在中、洵二無作法の御應封申上、今皈虞恐縮二不堪候、先ハ、右御禮旁々申述度、
如斯御座候、稽首
昭和七年九月十四日
興隆寺住職
藤沢岡克 外一同
大塚様 参人御中
この文中の「名画の大掛額」とあるのは、” 叭叭鳥“の画である。この図は昭和6年1月に、ベルリンで開かれた日本画展に出品した作品と同じものである。
『日本美術大観』には、次のように解説されていた。「鋭い目差しで画面のかなたを見るその鳥を、まさに、新しい日本画の進むべき道を模索する、大観、その人であると考えたい。」翻って、寺に飾られている 叭叭鳥を見る時、大観が美術学校で語ったという、訓話の一節が思い起こされる。「芸術は人文に貢献し、人の精神を高めるをもって最高の目的といたします」、「まづ心を養うことである。」
(塩出英雄の日記)より

時代を越えて、大観の言葉が 叭叭鳥と重なり、今も、嶽心荘に語りかけているような気がする。
終わりに、本稿の寄稿にあたり徳永泰男先生のご教示をいただきましたことを記して以って、謝意を表します。
(山ノ内町佐野959)

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